静岡県医師会報(平成8年11月1日発行、第1178号)
今号のとびらのことばは大久保副会長に終末期医療と安楽死のお話しです。先日、遠州総合病院学術講演会の「終末期医療を考える」と題したシンポジウムがあり、新村浜松市医師会長はじめ牧師さん、婦長さん、体験者の方など多彩な顔ぶれのシンポジストに会場の参加者を含めたとても活発な討論がありました。アンケート結果も示され、在宅死を望む方が61%、病院死29%という数字でした。
私も数多くの在宅死を看取ってきましたが、近年、実際には在宅死はむしろ減っていて、在宅死を望んでもなかなかそうもいかないようです。その一つに滅多に来ない遠くの親戚の「病院に入れて最善の努力をつくせ」というのがあります。本人の意思を知り、在宅死を全うさせてあげたいと願う、日頃一生懸命看病してきたお嫁さんがそのとき槍玉に上がります。私は、いかにお嫁さんが献身的に介護したか、もし入院させても治る見込がないこと、意味のない延命治療は本人の意思でないことを伝えます。そして入院させるなら、今度は皆さんが交替で休暇を取って延命治療中の付き添いをして下さいますかと提案することにしています。また、私は開業した当時から在宅死に立ち会うと、死亡宣告の後、一呼吸おいてお湯とタオルを数枚用意してもらい、居合わせた親戚の方々に「お別れですから、皆さんどこでもいいから体の一部を拭いてあげて下さい」と申し上げ、一緒に死後の処置をするようにしています。
平成5年5月号の教育医事新聞に「年をとって最後に一つだけいいことをしたというのは自分の死を孫たちに実際に見せて死の尊厳を教えることだ」と書いてありました。死にざまは生きざまを反映するはずで、そういう意味でも大切なことだと思います。訳も分からず拭かされた小さい子供たちが、その後大きくなってから、「先生、あのときの印象はとても強烈に瞼にやきついていますよ」と話しかけられることがよくあります。一生で一度しか死ねない「死」というものを大事に考えたとき、「日々生きることの大切さ」が見えてくるような気がします。