IT君、NKさん結婚披露宴媒酌人挨拶


 ただいまご紹介にあずかりました平良でございます。
 本日は若い二人の新しい門出のお祝いに際し、お忙しい中、多数ご出席下さいまして誠にありがとうございます。
 初めに、先程、当館別室神殿におきまして、新郎・IT君、新婦・NKさんの御結婚の儀が、おごそかに、かつ、とどこうりなく行われましたことをご報告申し上げます。

 続きまして、新郎新婦の御紹介を申し上げますが、新郎・IT君は昭和29年生まれの27才、お父様・利一様とお母様・孝子様の男二人兄弟の長男として川島町で生まれ、地元の川島小学校、川島中学校から城南高等学校へ進み、昭和49年、徳島大学医学部へ入学、一昨年、昭和55年3月卒業しまして、すぐに医師国家試験に合格、私共のおります徳島大学医学部第一内科へ入局されて、すでに医師として活躍中であり、現在、香川県立津田病院へ出向しております新進気鋭の青年医師でございます。

 お父さま・利一様はすでにおなくなりになっておりますが、永年川島郵便局へお勤めになり、30年勤続の表彰をお受けになった翌年、昭和41年1月に心筋梗塞でおなくなりになられたのでありまして、この時、利彦君は医学の道へ進むことを決意したと承っておりますが、その日がはからずも13年前の今日の事でございます。13年の歳月は悲しみを喜びに変え、あの日の誓いどうり医師となった利彦君は、しかも今日、こうしてお父さまのご霊前に、そしてまた一人頑張って子育てに邁進されたお母さまの前に、立派な花嫁さんをお見せすることが出来たわけでございます。本当に親孝行な息子でございます。

一方、新婦、Kさんは、現在、香川県三豊郡大野原町で時計商を営むお父さま・昭英様、お母様・キクエ様の一人娘、一人っ子として御両親の愛情を一身に集めてお育ちになり、これも地元の大野原小学校、大野原中学校、観音寺第一高等学校をへて徳島大学教育学部看護教員養成課程へ入学、昭和54年3月卒業、一時兵庫県の病院へ就職致しましたが、一年で地元へ帰られ、昭和55年9月に徳島大学医学部付属病院第一病棟4階東、即ち私共第一内科の主病棟でございますが、こちらへ就職されて、新郎利彦君との運命的な出会いをしたわけでございます。

 ご本人はご自分の性格について、のんびり屋で涙もろくてあきっぽいと分析しているようでございますが、利彦さんはとても味のある人なので一生かかっても飽きそうにありませんとのコメントをいただいております。

 二人が結ばれるまでのエピソードにつきましては、また、お友だちの方からいろいろお話しがあるかと存じますので、私は私とのかかわりの部分だけお話ししたいと思います。二人のなれそめはたしか昭和54年の暮れ、二人が共に第一病棟4階東で働くようになりましてから三ケ月ばかりたった12月のことで、病棟の忘年会の日だったと思います。私はお祭り事が大好きでございますのでこの日もI君を誘って当然のごとく参加したわけですが、この日私が薦めて二人にダンスを踊らせたのであります。二人はすぐに意気投合致しまして、I君も酒の勢いにまかせて相当せまったようでありました。その後もすぐに研究室の忘年会とか医局の忘年会とか続きまして、次第にエスカレートしてまいりましたので、私も心配致しまして、“I君、酒の入っていない時の気持ちはどうなんだ”と聞きましたところ“好きなんだ、結婚したいんだ”ということでございまして、“それならとことん押してみろ”とアドバイスしたのでございます。そのころは御両家のご事情も何も存じませんで、したがってKさんが一人っ子であることも知りませんでしたので、二人が先日結婚の相談に来られた時初めてその事 を知りまして、しかもN家の御両親が快く嫁に出して下さることになったと伺いまして本当に身の縮まる思いが致しました。私自身、三人の子持ちで、うち一人が娘でございますが、まだ三才のこの末の娘を嫁にやる日のことを思うとゾッとするのでございまして、息子は自分の好きな道へ進ませてやって、この娘にお医者さんのお婿さんをいただいて跡を継がせるのだとダダをこねて女房に笑われておりますので、娘を嫁にやる親のつらさのいくばくかは承知しているつもりでございます。したがって、私から二人へのアドバイスと申しますかお願いも、特に私達の職業が医師でありますので、たとえ一人っ子、長男でなくとも、結局親が年寄って困るのは病気なのでありますから、どうか御両家、御両親のことをよろしくお願いしたいということでございます。

 こうしてめでたく今日の晴れの日をむかえることになりましたが、なにぶんにも人生経験の浅い二人でこざいます。どうか、御列席の皆様方にも若い二人のために今後とも末長くよろしく御指導、おひきたて賜りますようお願い申し上げて媒酌人の挨拶とさせて戴きます。

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