徳島大学医学部を卒業して第一内科医局で10年4ケ月、うち3年4ケ月助手として、又7ケ月は大学院授業担当講師兼務で、恩師三好和夫教授の薫陶を受けて研究生活を送り、11年前現地で開業しました。研究以外では早くから学生担当をまかされ、授業のこと、ポリクリ、学生の悩みの相談、卒後の医局勧誘も私の役目でした。その際、三好教授から指示されていたことは「我が医局へ入って来て一緒にやってもらいたい人は、学生時代の成績の善し悪しに関わらず、何でもいいから何かに情熱を燃やして来た人である、そういう人を是非スタッフに加えてもらいたい」ということでした。この言葉は今でも私の心に深く残り、私の人生観の一部を成しています。そういう私も高校の頃は音楽に熱中し、本気でプロのトランペッターになるつもりでその道を模索していたものでした。
もう一つ、その後の私の座右の銘ともなった三好教授のお言葉で「信用は砂上の楼閣」というのがあります。信用というものは砂の上に築くお城のようなものである。築くにはエイエイとした大変な努力が要るが、崩れるときはあっけなくもろいものだ。決してあぐらをかくことのできない、さらにさらに努力を重ね続けてこそ維持できるものなのだという含蓄のある言葉です。患者さんとの人間関係、信頼関係でも全くそのとうりであると思います。診察室での私たちは常に真剣勝負です。目の前に座った患者さんの訴えにじっくりと耳を傾け、その苦悩を読み取り、それに対して自分が医師として何が出来るのか、その人の為に必死に考える。私は、学生担当をしていた時、学生や後輩達にいつも口癖のようにこう言いました。「患者さんに対して常に自分の祖父母、両親、妻或いは恋人、兄弟姉妹、子供達のようなつもりで接しなさい」と。自分の家族は邪念が入って正しい診断が出来ないから知人の医師にまかせると言う方もおられますが、私の主義からいうと患者さんを自分の身内のように診ろというのですから、家族はもちろん自分の患者です。
開業して6年目で、浜松市医師会理事になりました。10年目から静岡県医師会理事を併任しています。そういうことが好きだというわけでもないのに、なんとなく押し出されてしまって、単に世話好きとか、ライオンズの奉仕活動と同じでこれも地域社会に対する奉仕活動の一つかなといった程度の気持ちで続けるうちに、段々と押し出されて日医の委員まで回って来て、もう限界かなと思う昨今です。そうはいっても中途半端で済ませられる性格でもなく、とにかく必死、与えられた仕事の他に学校給食を健康教育に活かすための運動の一環として7000名余を対象にした大規模なアンケート調査を実施したり、伝染病の予防や慢性病の重症化を防ぐため「外国人労働者にも日本人と同じ医療保障を」と主張して市内のすべての奉仕団体を結集してのチャリティバザールを成功させたりと息つく暇も無い忙しさです。
「エンタルピーは命のロウソク」という私の口癖からすると、常に交感神経優位の生活をしている私は気持ちの休まる間もなく、太くなくても短い人生になるのは致し方ないことかもしれません。と言いながら、暇を見つけてはゴルフ、アルコールにカラオケと遊び方も半端じゃなく、暇の見つけ方は超人的、そのスケジュール表を見ると日曜日の朝、原稿を一つ書いてからゴルフをしてそのまま京都まで行き、祖母の墓参りをして伯母を病院へ見舞い、帰って来て会合を一つこなして、それから飲みに行くというようなたった一日でよくこれだけできると感心されたり、あきれられたりしています。
私は、小学4年生の時に父親を亡くしました。祖母と母と中3から2歳までの7人の兄弟姉妹で5年間、生活保護を受けました。琉球王朝の末裔である祖母と母はその屈辱で気も狂わんばかりでした。生活保護費を受け取りに行くのは私の役目で、朝の支度、新聞配達はもとより、学校から帰ればたばこなどの行商、水汲みなど息つく暇の無い忙しさは思えば今に始まったことではなかったのです。働きながら定時制高校に通うはずの私が、日本育英会の奨学資金に合格した時点で3人の姉兄の働きもあって生活保護を辞退できました。こうした経験が医師になっても生きていると思います。金の亡者や成り金にはとてもなれず、余裕のできた分は兄弟や奉仕活動に回しても、そこそこの生活ができるたいへん幸せな生活を送っていますし、患者さんをはじめ回りの人達の気持ちを思いやれる心のゆとりもあります。やはり、医師が生活に窮々としていたのでは良い医療は出来ないと思いますが、日本の医療行政は医師に対する締め付けを強めています。しばらくは医師会活動ではそのことに重点的に取り組んで行こうと思っています。