沖縄社会福祉協議会第6回たすけあい作文コンクール佳作賞
「章、章、先生、章はいませんか。」というとなりのおばさんの声が聞こえました。僕は急いで職員室のドアの方へいってみました。泣き声をしたおばさんは僕の顔をみるなり、「章、おとうさんが死んだよ。」と言いながらはげしくしゃくりあげるのでした。僕も悲しくなり涙をこらえながらかばんを先生にあずけると、走って帰りました。
父はある三つの病気(名前はわかりませんが。)でたいへん長いわずらいだったのです。座敷にあがって父のねている所にいきました。父のその時の顔は妙に青白い顔をしていました。おそるおそるさわってみると、脈はまったく感じられません。僕は悲しみのあまり大声で泣きました。やがて父は体を清められ服を着せられました。足を曲げて手を胸に組んで寝かせられました。まもなくお棺がきて父はお棺に入れられました。いよいよ父との別れです。むしょうに悲しくなってしかたがありません。なぜ人間は死ななければならないんだろうと考えるといよいよまた悲しくなりました。気がつくと外には今までは親類とも知らなかった人たちや、僕や妹、弟、兄、姉だちの組の生徒、隣の人たちがいっぱいいました。子供心にもちっぽけなかわいそうな淋しいお葬式になるだろうと考えていた僕は大きくなるにつれてあの時の感謝の気持ちが強くなってきます。兄は白い半そでのシャツのようなものをきました。なんでもその家の長男が着るのだとおじが教えてくれました。後からたくさんの人が来て、親類の多くない私たちのお葬式としてはたいへん盛んでした。父もあの世から感謝していたと思います。家族一同どんなに感謝したでしょう。でも、こんな行列はもう二度としたくありませんでした。
忘れもしない小学校の四年生の三学期、もう二月も末の二十五日のことでした。後で母に聞いたことですが、その時家にはお金がB円のたった二円しかなかったのだそうです。お葬式の時にもらったお金で、お葬式に要する金もはらったということです。その時の母の苦しみがよくわかるような気がいたします。そのために姉はせっかく合格した昼間の学校をあきらめて定時性高等学校にまわったのです。その時も担任の先生はじめ高等学校の先生方の深いご理解なしには定時制のコースにはまわれなかったと思います。でも、やはり家の経済の苦しさは変りません。姉は人々のお世話で糖商組合ではたらかせてもらい、しばらくつとめて後、周囲のあたたかい助けの手はのびて姉は宮古巡回裁判所に努めることになり、来年の春には卒業します。一番上の姉さんは今年の春に卒業し現在宮古電報電話局につとめ、兄は水高の二年生です。この三人が父のかわりにいろいろやってくれます。そのようにこまっている時に、なんとかしてこの苦しみからぬけ出させてやろうとあちこちかけずりまわって、はたらき口をみつけてもらった先生方、そして役所の方々がいらっしゃらなかったら、たとえ夜間の学校であっても、おそらく姉の高校進学もむつかしかったと思います。
以前よりいくらかくらしのよくなった今、以前の僕たちと同様に困っている家があるとするなら周囲の人々と力をあわせてなんとかおたがいに助け合っていきたいと思います。日頃はそれほど感じない僕もこうして助けあいの作文を書いていると「よし。」僕も困った人々にきっと、きっとできるだけの援助しようという気持ちがおこってくるのです。
(校正ミスも含め、あえて原文のまま)